みわ由美 あったかい政治に!
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タイトル ノ一モア ヒバクシャ タイトル

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2009/09/04
 先日、県内にお住まいの被爆者の方を私はお訪ねしました。
 「被爆のときは7歳。あれから64年たって、私は、いま72歳……」と語る彼女は、黒い髪をきれいに自分で結って、キリッとした赤い玉の飾りで髪を束ねておられるのが、印象的でした。
 玄関の上がり框に座り込んだ私に、いきなり彼女は、《苦しい胸のうち》ではなく、胸そのものを開いてみせてくれたのです。手術の後も痛々しい、痩せた胸にはギザギザの傷が幾重にも重なっていました。私は直視できませんでした。

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 「私の心臓は3回手術、脳梗塞は4回起こしたの。腎臓も肝臓も小さくなって、体中が痛い。外からは見えないけれど、内部被爆なのよ」。内部被爆というものも、とても恐ろしいと思いました。「もう私の体は原爆症と闘ってボロボロよ。こうして、三輪さんと話している間も、痛いの。特に背中が痛い。原爆症は、医者も判らないって言うわ」
 覚悟はしていたものの、残酷な話でした。彼女の訴えは続きます。「今年、裁判に勝った。国は64年目にして、私をやっと被爆者だと認めたの。いままで、ずうっと私は、肩身の狭い思いをして生きてきたけれど、やっと被爆者だと認められたことは、いい。でも、コレでどうして一生、生きていけますか。国は冷たい。勝ったけれど、コレでどうやって……」。

 私は、うなづき、暫くして、思い切って伺いました、「今、世界の流れ(=オバマ大統領が核廃絶を目指すと演説、志位委員長が書簡を送り、共感の返事が寄せられた)変わりつつあるけれど、どう思われますか」。彼女は、「それはいいことよ、やっと私たちの願いが届いたのだから。でも、《やっと》ということが悔しい」こう言って、顔が苦しそうになりました。
 彼女は11人兄弟。広島で被爆した日、お母様は、まだ2歳の赤ちゃんを一番下に、11人の子どもさんを残し、全身に放射能を浴びたのです。「母は、半狂乱になって子どもの名前を叫びながら10日後に死にました」「父も、放射能まみれの材木で、バラック小屋を建てて、そのまま1ケ月後に、死んだの」「三輪さん、母を奪い、父を奪った、国が私は憎い!」

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 「国が憎い」と言って、彼女は、カッと眉を怒らせ、目から、ポロポロッと勢いよく大粒の涙を、こぼされました。こんなに怒りながら、泣く人の凄まじさを、私は初めて目の当たりにしたのです。
 そこには、原爆投下への怒りが、親子をこんなに無残に引き裂いた国への果てしなく深い怒りがありました。私も一緒に泣きました。

 そして、その思いを、平和の大切さを、この選挙で私は訴えました。(街頭演説原稿はこちら

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