この道を歩んで─みわ由美物語─1─
◎Part 1 父の大病で一転、家賃も払えない……
みわ由美(よしみ)さんは1955年、京都の西陣に生まれました。北野天満宮や京都御所が、ヨチヨチ歩きのみわさんの遊び場。助産婦をしていたお母さんと京都府立医科大学で学んでいたお父さんに、大切に育てられていました。
ところが貧しくとも懸命に暮らしていたみわさん一家に突然、暗雲がたちこめました。お父さんが結核で長い病の床に伏してしまったのです。お母さんは必死で働きましたが、その肩に生活費と治療費が重くのしかかり、とうとうその日の生活にも事欠くようになってしまったのです。
月末になると、いつも家賃の取り立てに来る大家さん……。「子どもは向こうに行ってなさい」とお母さんに言われ、おそるおそる障子の向こうの隣の部屋に移るみわさん。「子どもの頃の思い出は、白い障子と大家さんの取り立てでした」そう語るみわさんの心の中には、今でも幼い頃のつらい記憶がきざまれています。
◎part 2 母のテーマソングは『しあわせのうた』
そんなみわ由美さんの家族をあたたかく励まし、援助してくれたのが日本共産党の人たちでした。「よしみちゃん、元気だして。がんばれば必ずいい事があるからね」あたたかい言葉をそえて、身の回りのめんどうをみてくれる人たちの優しさが、幼いみわさんの心にしみました。
「しあわせはオイラの願い、仕事はとっても苦しいが〜♪」頬をまっかにして、いつも忙しく働くお母さんのテーマソングは、当時、はやっていた『しあわせのうた』。明るく歌うお母さんの声に、みわさんはどんなに励まされたことだったでしょうか。「戦争と貧乏をなくすのが共産党の仕事だよ」と優しく語りかけるお父さん。こんな両親からのメッセージが、みわさんの生き方の原点となっています。
◎part 3 「森永ヒ素ミルク事件」に怒り、高校全校集会で訴え
ほどなくみわさんの家族は、京都から和歌山県に転居。小中学校では書道とコーラスを、高校では剣道・茶道・華道と、文武両道に挑戦……活発な女生徒でした。高校3年生のある日、新聞を見てみわさんは大きなショックを受けました。自分と同じ年の女子高生が森永ヒ素ミルク中毒の被害者で、自殺未遂をはかったという記事でした。
1973年6月27日の「朝日新聞」
みわさんはすぐさま、その生徒と連絡をとり、励まし、とうとう自分の高校に招いて全校集会を開きました。集会は涙と怒りの訴え、その様子は新聞にも報道されました。「なぜ、どうして赤ちゃんが……?」生命よりも企業の利益が優先される社会のありかたに大きな怒りを感じるみわさん。大学進学をめざして再び、京都へ向かいました。
◎part 4 みんなに望まれ、政治の道へ
水俣病などの公害問題。それを勉強したくて立命館大学の産業社会学部へ入学したみわさんは、19歳の秋、日本共産党の一員となっていました。
卒業後、大阪の電機会社に入社。結婚して3児の母親となってからも、保育の充実など地域をよくする運動の先頭に立ってがんばりました。1988年に夫の転勤で松戸市に転居。松戸でも女性運動や学童保育運動などにたずさわり、「しなやかで芯の強い人」と評判になりました。
そして1993年に、重大な転機がみわさんにおとずれました。衆議院選挙に立候補してほしいと、多くの人から要請を受けたのです。みわさんは随分悩みましたが、「ひとりでも苦しむ人を救いたい」と、ついに決意。このときの選挙では惜しくも当選はしませんでしたが、1999年の県議選挙で、みごとに当選を果たしました。
今、みわさんは、松戸市内をはじめ県内全域をかけまわっています。一人ひとりの願いをしっかりと胸にいだいて……。
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