日本共産党 千葉県議会議員 みわ由美

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活動紹介


千田護さんへの弔辞

 突然の訃報。9月23日お通夜に参列し、弔辞をのべさせていただきました。

おわかれの言葉


 大勢の皆さまがご参列の中、ここに立たせて頂く事、大変、恐縮しておりますが、元市議会議員を三期務められた千田優子さんから「生涯、日本共産党員だった護さんのことを是非に」というご指名を頂き、現在、松戸市選出県議会議員を務めさせて頂いている立場から、誠に僭越(せんえつ)ながら、お別れの言葉を述べさせて頂きます。

 千田護さん、本当に逝ってしまわれたのですね。私は、議会と公務がようやく明けた昨夜、いつものように千田さん宅をお訪ねしましたが真っ暗でした。つい先日も、「暑いから、これ飲みな」と梅ジユ一スを出してくれたじゃないですか。「行こう三輪さん高木さん」と、地元の共産党高木健市議とともに、いつも励ましてくれたじゃないですか。護さんの、大きくて、明るくて優しい、あの声、もう聴かれないのですね。辛いです。

 八月初めには千田さんのお宅で、護さん手作りの、自称・お得意の、超ビッグな大きな卵焼きなど、お料理がイッパイの集いもしました。浅野ふみ子・日本共産党参議院千葉選挙区予定候補も囲んで、小金きよしが丘のご地域の方々が、悲惨な戦争体験や平和憲法のことなど語られて、涙と怒りの集いになりました。

 後日、護さんと私は、反戦平和・ブレずに貫く日本共産党を大きくしてください、と地域の方に入党して頂きましたが、たまたまその方のお宅のエアコンが壊れていまして、護さんは「自分ちもエアコンがなかったけど、つけたから、うちの扇風機使って、使って。今から運ぶから」猛暑の中、親身になって何度もおっしゃっていた姿、忘れる事は出来ません。護さんのお父様が宮城県の小さな町で、長らく共産党の町議会議員をしておられ、だから自分は小さい時から、「助け合って暮らすのは当たり前」に育ってきた、そんな話も、初めて伺いました。

 護さん、人の痛みは我が痛み。そして我が痛みもオ一プンにして、自作手書きの健康10か条を、たくさんの方に配布をしておられましたね。私も何度も頂きました。その護さんが、こんなに早く逝ってしまわれるなんて。残念で残念でなりません。
 昨夜、優子さんからお聞きした話では、「最後に護さんの意識が薄れていく最中に、町会のボ一リング大会のお誘いの電話がスマホにかかってきたけれど、受け答えできなかった・・」ご本人が一番、無念だったことでしょう。

 千田護さんは、19歳から73才までの生涯を日本共産党員として活動をされ、優子さんが3期務めた松戸市議会議員時代には、市民とともに実現させた中学校給食、最近では地元ハワイ通りの振動対策など多くのことに、貢献されました。同時に、東京都の職員だった現役時代から、地域の町会やお祭り等々の活動に、粉骨砕身30年以上関わってこられました。

 ある意味私たち以上に、広く深くお付き合いをして頂きました地域の皆さまには、心から、感謝を申し上げます。本当に、有難うございます。地域の日本共産党も、護さん亡き後、失ったものはあまりにも大きいのですが、今後とも私ども地域の皆さまと共に頑張りますので、様々なことをお教え頂き遠慮なくお声かけ戴きますよう、宜しくお願い致します。

 昨夜、千田護さんのお宅をお訪ねしましたら、護さんの姿はありませんでしたが、真っ暗闇の中で、掲示板に護さんの筆文字で、「沖縄・辺野古新基地を止めるのは玉城デニ一候補。故翁長知事の遺志をしっかりと受け継ごう!」右と左の両側に、輝いていました。先月8月15日には、家族で入れる「お墓」をつくって、妻優子さんと共に、護さんの筆文字で石碑も刻んで、完成させたところだったのよと、優子さんからお聞きしました。
10人のお孫さんに恵まれたとお聞きしました。ご家族の皆さまに心よりお悔み申し上げます。

 お別れはしたくない、でも、さようなら、を言わなければなりません。地域の町会に長らくかかわられ地域の皆さまと共に歩んでこられた千田護さん、そして生涯を日本共産党員として活動された千田護さん、本当に有難うございました。心からの感謝を捧げ、護さんが願い続けた誰もが安心して平和に暮らせる社会をめざして、私どもも、皆さまと共に頑張ります。
 そのことを、固く御誓いし、重ねて、護さん、ありがとう有難うございました、と申しあげ、お別れの言葉といたします。さようなら・・・

2018年9月23日 日本共産党千葉県議会議員 みわ由美


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