日本共産党 千葉県議会議員 みわ由美

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活動紹介


「兄さん、おかえり。日本の夕食ですよ。一緒に食べましょう」−ご遺族の言葉
「戦争を起こしたのが人なら、戦争を無くすのも人によって」−孫からの手紙
松戸市戦没者追悼式に参列

松戸遺族会会長椿氏の挨拶
松戸遺族会会長椿氏の挨拶
 2017年11月18日(土)松戸市民会館大ホ一ルで松戸市戦没者追悼式がおこなわれ、私と、日本共産党山口正子市議、平田きよみ市議らが参列しました。
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 市長や市議会議長、県知事代理、県遺族会らから追悼の言葉の後、遺族代表らから想い出の言葉などがあり、会場は静まり胸に迫るものがありました。その後に、ひとりひとりから白菊の献花が手向けられました。
 この夏、原水爆禁止世界大会に向けた平和行進もされた松戸被爆者の会生島渉さんも献花されました。長崎平和大使として松戸市の平和事業で参加した中学生らも献花されて、最後に献詠で李白作の静夜思(せいやし)など、詩吟もありました。

献花する長崎派遣の平和大使
献花する長崎派遣の平和大使
 私は、戦争で犠牲になられた皆様とご家族に心からの哀悼を捧げながら、平和への決意を新たにしました。悲惨な戦争体験が語られ、「孫からの手紙」が切々とよみあげられましたが、どちらのお話しにも、会場から涙する人々・・・が、ありました。私も思わずこみ上げるものがありました。

 二度と再び戦争を繰り返してはならない、という誓いが、最も多く繰り返された言葉でした。以下に、その内容の要旨一部をご紹介します。

ご遺族代表の方からの「思い出の言葉」より
・・私の兄は、昭和21年ルソン島にて戦死しました。兄は、私が二歳の時に出征したため覚えていない。父も母も一度も兄のことは話してくれませんでした。私に話すと一層悲しみがよみがえるからでしょう。・・・平成18年、兄さんが戦死した場所に、とようやくルソン島の小高い丘の上に立ちました。「兄さん、遅くなりました。一緒に帰りましょう。福井に帰りましょう。幾筋もの涙が流れました。
・・マニラ湾の夕陽をみましたら湾全体が綺麗なオレンジ色で、兄さんも夕陽をみながら父に会いたい、母に会いたい、妹に会いたい、福井に帰りたい、平和で早く戦争が終わって欲しい、と願っていたのではないか、また涙しました。
・・日本の帰り、家内と「兄さん、おかえり。日本の夕食ですよ。一緒に食べましょう」涙が止まりませんでした。ルソン島の小高い丘の上の、少々の土を持ち帰りました。子ども、夫婦、孫が集まり、持ち帰ったものをおさめました。
・・あにさまの悲しい思いを癒して・・戦後72年、尊い命を捧げた尊い命のおかげです。今の日本は平和の毎日です。わたしたちの時代は、こどもたち孫たちにに平和で真摯な生活を送ります。安らかにおねむりください。・・・
(若干の記録違いはご容赦ください)


ご遺族代表の方からの「孫からの手紙」
・・祖父への思い。みんなのための水を汲みにいって、地下壕の中から。米軍のかんこう射撃をうけて沖縄で、27歳妻と子ども二人を残して戦死しました。祖母は、たびたび話してくれた。沖縄は、米軍に囲まれていた。
だから地下壕にいるみんなのために汲んできた水は、血が混じった赤い水だった。汲みに行く人が、みな傷ついていたから。なかでも祖父は、とても責任感が強かった。
・・沖縄、サイパンで遺骨収集・・の時、どんな小さな骨でも宝物を宏宇うな気持ちで・・祖父について父に訪ねると、ご飯一粒コメ一粒残すと眼が潰れる、と言われた。
・・沖縄に行き真っ先に、平和の礎に刻まれた千葉県松戸市の祖父の名前に手を合わせた。
戦争がなければ、私と祖父はめぐりあえていたのに。沖縄は日本でも、県民の30%が犠牲になった街で、今も基地と隣り合わせ。
・・いま、私は学ぶことが出来るが、本当に戦争を理解しているのか。戦争はいけない、で終わってしまうのでなく、もっと深く考える必要がある。戦争を知らない世代に考えてもらいたい。小学生という感受性豊かな時に。私も小学生のころ被爆者の方のお話しを学校で聞いた。
・・私達は、過去の犠牲に成り立っている。誰かに任せるのではなく一人一人が戦争について考えなければならない。戦争を起こしたのが人なら、戦争を無くすのも人によってなくせる。いま戦争を知らない人が増えているが、忘れない、忘れさせない、努力をしなければならない。自分から積極的に。
・・いつしか、全ての人が、戦争はいけないものだという・・・ように。


 このあと、遺族会会長さんからも、「・・・戦争を知らない世代が8割になっているが私達遺族会は真剣にこのことを考えたい。最近、命の尊さ、今一度平和の尊さ、皆さまと一緒に、二度と悲惨な戦争を繰り返さぬよう、皆さまと一緒に・・・」


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